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現在位置: ホーム > 放生寺の由緒沿革 |
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| 名称 | 威盛院 光松山 放生寺 | ![]() |
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| 宗派 | 高野山真言宗 | |
| 寺格 | 準別格本山 | |
| 創建 | 寛永十八年(1641年) | |
| 開創 | 良昌上人 |
放生寺は寛永十八年、威盛院権大僧都

創建から213年後の、嘉永7年(1854年)当時の地図。この辺り一帯は「放生寺門前」と称された。
(地図提供:株式会社 人文社「切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩」)
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御真言 オンアロリキャソワカ
聖観世音菩薩は、南海の補陀楽浄土におられる菩薩様で、そのお名前の示すとおり世の人々の声を聞き、その苦しみや悩みを救い悪事災難を除くことを御誓願とされている慈悲深い仏様で御座います。
観音経に由ると我々が災難に遭ったとき観音様を一心に念ずると自由自在にお姿を変えてお救い下さることから観自在菩薩とも云います。
そのお姿が三十三身あるとされ観音霊場が三十三の札所となった起こりともなっております。
放生寺のご本尊は古くより融通虫封じ観世音として称され親しまれて参りました。
融通とは滞り無く通じることを意味します。
冬至より授与いたしております「
虫封じは起源は定かではありませんが江戸の時代より夜泣きや疳の虫の祈祷霊験あらたかな寺として多数の老若男女の参詣があり今日にいたって居ります。
尚、本尊様は秘仏のため、年二回の開帳法会で御参拝出来ます。
春季本尊開帳法会 四月十八日
秋季本尊開帳法会 体育の日
弘法大師
御真言
真言宗を立教開宗致しました弘法大師空海は今を遡ること1230年前の宝亀五年(774年)現在の香川県善通寺市に父を佐伯善通、母を玉依御前の間にお生まれになりました。
幼名は真魚(まお)と名付けられました。
幼少の頃より修学にすぐれまた、仏教を深く信仰されておりました。
18歳で都に出て大学に入るも当時の栄華と虚飾に満ちた都の空気と大学内の立身出世主義にはなじめず大学を中退され仏門に入る決心をされました。
その後山野で御修行の後、延暦23年(804年)大師31歳の時に遣唐使して留学生の身分として入唐を果たしたのでありました。
唐においては当時の都西安で恵果和尚について密教を学び大同元年(806年)に帰国されました。
その後は京都にて密教の教え広めるために日々尽力されましたが、弘仁7年(816年)43歳の時に嵯峨天皇より高野山開創の勅許を賜り七里四方の山を真言密教の根本道場としてお開きになりました。
しかし承和2年3月21日高野山において永遠の禅定に入られました。
これを入定と言い単なる人間の死ではなく死を越えられて不死の境地に入られたのです。
入定の際にお大師様はご誓願として
虚空尽き 衆生尽きなば 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなん
世界が尽きるまで、迷える衆生が尽きるまで、さとり(衆生を救う行)の尽きるまで、永遠に仏に祈りつづけたい。空、衆生、さとりが尽きれば、わたくしの願いも尽きるであろう。
と言うお言葉を残されました。
二十一世紀の今日もお大師様は我々の救済のために祈り続けられて居るのです。
ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだおわしますなる
(弘法大師第一番御詠歌)